2009年11月19日木曜日

第8回不登校の克服とは?

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こんばんわ。日中でも12度ですって!すっかり冬ですね。

大体バイク移動なんですけど、寒すぎてバイクがつらすぎます。

衣替えするといつもこんなに着るものがなくて

いったい去年は何を着てたんだろう?って毎年思ってしまいます。

ってことでアウター問題発令中です


まあそんなことはいいとして、今回のテーマに入りましょうかね。

今回は「不登校の克服とは?」です。

普通に考えると、学校に行き始めたり、進学したり、就職したりってことなんでしょうね。

不登校になると、このようなことが出来ないんじゃないか?って思ってしまいがちです。

確かに心配ですし、このような目標を立て、このようなことが達成されたとき

見た目では不登校を克服したということになるのでしょう。

では不登校を克服するには、どうすればいいのか?

ココが一番気になるところですよね。


でもその前に、克服ってなんなんでしょうか?

今回のテーマで言いたいところはここからなわけです。

前記で述べたように、何かしらの親が望むような行動があったとしましょう。

克服したといわれるその日を、基点として前日と今日は何が違うのでしょうか?

むしろそれは違っていいのかな?って私は思うわけです。

成長というのは点ではなく、積み重ねによる線でつながっているものです。

だから克服すると違う人間に変われるみたいなイメージが先行していて、なんか違う気がします。

そもそも子どもの成長に、克服という言葉を使うこと自体に、気持ち悪さすら感じます。



少し話を飛ばしますが、

裏と表、光と影、どっちが良くて、どっちが悪いということじゃないわけです。

不登校の状態を悪いと捉え、不登校を克服した状態を良いと捉えることを

子どもの評価にしてしまうのは果たしていいんでしょうか?



子ども自身は、とてもその評価で悩んでいます。

「学校に行くことは普通とされていて、普通のことも出来ないダメ人間だ。」

不登校の子どもは時にこんな思考になりがちです。

そこでどっちがいい、どっちが悪いという評価では

仮に克服した状態になっても、

だめな状態が自分にあったから、これからもがんばり続けなければ

だめな自分に戻ってしまうのではないか?

という恐怖感や不安でいっぱいになってしまいます。



何が言いたいというと、裏も表も、光も影も、

「学校に行ってる子ども」だろうが「不登校こ子ども」だろうが

それは2つで1セットなんです。

「こうだから良い」 「こうだから悪い」という小さな評価はやめたほうがいいでしょう。

もっと大きな心をもって、子どもの成長を楽しみましょう。

だってどっちも子どもですよ。それは何も変わりません。



子どもの成長は線で繋がっていて、もちろん不登校でもいいんですが

たとえ不登校じゃなくなってもそれは克服じゃくて、子どもの成長なんです。
(もちろん学校に行っていなくても子どもは成長しています。)

だから不登校の克服なんて、行動ではあったとしても本当の意味ではありえません。