2010年1月7日木曜日

第13回勉強について

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あけましておめでとうございます。

今日からうみほどコラム再開します。

いやー。最高な冬休みでした。ゆっくりやすめてリフレッシュ!

本当に休みすぎて、ほとんど家を出なくて思ったことは

外にはがんばらないと出られないので、休むときはもっぱら家の中です。

やっぱり家の中が好きなんですね




今回のテーマはずばり勉強についてです。

このテーマで言っておきたいことは大きく分けて3つあります。

1つ目は、勉強はいつからやっても取り戻せるということです。

「若いうちにやらないと吸収が・・・。」なんていいますが

ないとは言えません。それも一部あるでしょう。

しかし、

やりたいときにやるのが、一番吸収します。

学校でやる勉強よりは、効率よく勉強することができるとおもいます。
(学校は勉強だけするわけではないので効率は落ちます。音楽とか体育とかやりますからね。)

なので1年遅れたから、1年かかるわけではい事を覚えておいてください。

といっても、一度学齢期を外れる(もしくは学校という枠から外れる)と

すべて自己負担になってしまうのでこれは本当にいかがなものでしょうか?

学校に行くのが嫌なだけで、教育を受ける権利まで放棄してるわけではないんですけどね。

まあそれはいいとして、やりたくなったらいつでも出来ます。

あせらないで、本人の育つちからを信じてあげましょう。




後は何故勉強が嫌なんだろう?ってところもわかってあげないといけないと思います。

自分のために勉強をするのは、子どもにとってやぶさかではありません。

何故なら何かやりたいことがあって、そのために勉強をすることになるので

自分なりに勉強の目的と、目標がはっきりしているので、

大きな意味で嫌なものにはならないでしょう。

まあ最初に書いたやりたくなった時この時なのでしょう。

しかし何故勉強が嫌か?(嫌だったのか?)

単純にわからないものを、説明も無くやるのは大変難しいことですが、

勉強の奥に、良い感情を抱いていない学校が見えるからではないでしょうか?

「学校が嫌だ。」と不登校をしているなら

学校が見え隠れする勉強なんかはやりたくないですよね。

しかも学校で使っていた教科書を使うと、もっと思い出したりするんじゃないでしょうか?

そんな例は1例として、その子それぞれその理由を持っているはずです。



最後に「勉強が出来ないことで、自己否定が始まる。

とか

「勉強が出来ないことで不安が始まる。」

とかよく聞くんですけど、これは私が当事者だったからなのかもしれませんが

それは本当に勉強ができないから、不安なのか?自己否定をするのか?って

考えてしまいます。

これはたまごが先か、ニワトリが先かの話になるのかもしれませんが

不安だから勉強ができないし、自己否定してるから勉強に手が付かないじゃないか?

と思うんです。

むしろ勉強が追いついたとして、根本的な不安が解消されるのかな?

勉強が出来たくらいで自己肯定できるのかな?

私は不安で、苦しくて、自分は何者なんだろう?って不登校真っ盛りの頃

毎日、毎日繰り返し、そんなことを考えていたので

私の不安は勉強で解消されなかったと思うし、

勉強することで、自分が何者なんだろうか?なんてことは突き詰められなかった気がします。

まあ私は不登校中は勉強はしなかったんで、そのあたりは謎のままですが

時に勉強よりも、自分の不安を自分の心を正直にして探ったり、

自分が何者であるか考える時間も、大切なのかもしれませんよ。



でもね、自分が心が楽になる方を選ぶのが一番いいんだよ